教理史6 自然と恩恵
人間独自の能力が救いにどこまで有効であるか、神の恩恵はこの能力とどのように関わるかが問われる人間論と救済論の展開である。
地中海世界において古代キリスト教が直面した異教およびキリスト教異端の多くは、ストア哲学の運命論、グノーシス主義の宿命論や人間存在の罪悪性、マニ教二元論における人間の悪的起源説などのように、人間能力についての悲観主義が強い。これらに対立したキリスト教が被造人間の原初の善性と自由意志など本来的能力を強調したが、これが東方教会の人間論の基本となる。
東方協会の救済論においても人間の能力が主役となり、神の恩恵は補助的役割を与えられることから、「自然と恩恵」という主題が展開する基盤が弱い。
西方教会にはテルトウリアヌスの倫理主義やアンブロシウスに見る人間の急進的罪悪性など人間能力に対する厳しい見方の伝統があるが、アウグスティヌスは人間の魂の深奥にある罪の問題に注目し、宗教の関心事を宇宙大の神やキリストの領域から人間に移し、「自然と恩恵」という主題を基礎付けた。
主流派では、「恩恵」は圧倒的に重視する。Gratiaは「唯」の意味である。「恩恵」の本質はただである。
2.ペラギウス論争
論争はアウグスティヌスの『告白』の一文に対し修道士ペラギウスが自由意志の意義を無にする恩恵説と批判したことに端を発し、アウグスティヌスの生涯後半を占める大論争となる。ペラギウスの立場は「道徳的修道院主義」と呼べるもので、「自然」状態における人間には善悪を選びうる完全な自由意志があり、アダムの原罪の影響は「模倣」によってのみ継承され、「恩恵」は善を求めるよう意思を促す、補助的なものとした。
熱心な信者が自分の救いを完成するために、修道院に入る自己救済である。
3.アウグスティヌスにおける「自然と恩恵」
ペラギウスが自由意志(「自然」)を有する人間に注目したのに対し、アウグスティヌスは「恩恵」を受ける人間に注目する。アウグスティヌスの理解の基本には、神の絶対主権のもとでの「自然と恩恵」、その帰着点としての神の予定、堕罪後の人間の罪性、主権的・公同的恩恵という理解がある。アウグスティヌスの理解が厳正に継承されたか否かは別問題としても、「自然と恩恵」の主題はその後の西方教理の伝統に決定的な影響を及ぼすことになる。
アウグスティヌスが罪に対する理解:
堕落前:人間は罪を犯さない能力と滅びえない能力をもって創造された。しかし、罪を犯さないことでもないし、ほろびることができない能力もない。
堕落後:罪を犯さないことができない。滅び得ないことができない。必然的に罪を犯すことに落ちる。