HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

教理史7 正統主義の樹立

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1.正統信仰の一致:

ヴィンケンティウスの「規準」をもって表現すれば、「どこででも、いつでも、すべてによって」( quod ubique, semper, ab omnibus )信じられているものが公同的伝統、すなわち正統主義ということになる。

「どこででも」

教会こそが真理の保護者であるという意識があった。これはニカイヤ会議の以前と以後にもあった。

教会は神礼拝の真の場所である。公会議によって教義の正しさをもつことを決めた。

「いつでも」

大グリゴリウスⅠ世は中世の基盤を築き、エゼキエル書の注解をかいた。彼は律法の中で三位一体があると主張。モーセのときからあったので、古いであると主張。

「すべてによって」

Cathlic orthodox が正式の名前。公同の教会。

「だれもが」

教職者のすべてを指している。

この段階で、多くの異端が退かれる。

 

2.正統主義の樹立と化石化:

ニカイア会議からカルケドン会議において成立を見た神論とキリスト論は「信仰規準」( regula fidei )として正統信仰の尺度となる。同時に、正統主義には非正統的教理を排除し、それを強制するための政治的権力と神学的に反駁しうる神学者や教職者を支える教会的権力が必要となる。東方教会では最初の七つの世界教会会議[ ニカイア(325)、コンスタンティノポリス(381)、エペソ(431)、カルケドン(451)、コンスタンティノポリス(第二、553)、コンスタンティノポリス(第三、580-1)、ニカイア(第二、787)]で成立を見た教理をもって正統信仰とみなす。しかし、オリゲネス主義の排除に例証されるように、東方神学を支えた自由で、独創的研究が制限されるにおよび、神学の化石化現象が顕著となる。同時に、西方教会においても、東方教会との交流やギリシャ語の知識の衰退に伴い、ラテン神学にも化石化は見られる。この間、神学者といえるものは一人も出てこない。

現在の東方orthodox教会なら、七つの教会で決まったことで終わりである。その後、教理史は西方教会で発展していく。プロテスタントも教理史においてはオープンである。新しい問題に直面するなら、それに応答しなければならない。

神学が正当化すればするほど化石化する危険がある。生きたものに適用してないからである。教理は生きている時代に生かしていかない限り、教理は発展していかない。

 

3.神秘主義と画像崇敬

主に東方教会において、化石化が進む正統信仰を補足し、生きた信仰や敬虔の涵養のために登場するのが「ミステリオン」(神秘、奥義)をめぐる思索や実践をはかる神秘主義とその代表的表現である「イコン」(画像)崇敬であろう。神秘主義著作の代表例はディオニュシオス・アレオパギータの一連の文書(『神秘神学』、『天上位階論』、『地上位階論』など)であろう。画像に関しては、第二ニカイア会議がその正統性を認めるが、画像論の確立にはヨアンネス(ダマスコの)やテオドロス(ストウディオスの)の独創的理論が貢献した。

東方教会の教理は、三位一体、二性一人格、画像についての三つだけである。

『天上位階論』9階層がある

『地上位階論』天上の位階のコピーが地上の位階であり、それが教会である。これが、後にカトリック教会の教皇制の下敷きとなる。

「礼拝の中で神様を知る」-神秘、画像。東方教会において、クリスチャンということは礼拝によって認識する。礼拝に出ていれば、クリスチャンである。

 

画像礼拝について:

ヨアンネス(ダマスコの)

十戒の偶像の礼拝を禁ずることは、旧約時代に適用ものであり、新約では適用てきない。なぜなら、神が人間の姿に受肉し偶像礼拝を破ったから。画像崇敬しないものは、キリストを否定するものになる。

テオドロス(ストウディオスの)

すべてのものと事象は、最初のあるものは神の中にイメージができる。その後に具体的なものができる。画像の背後にあるもの、そのイメージを崇敬する。Icon礼拝するものは、偶像礼拝ではない。描かれている背後にある人格を崇敬するという。

 

しかし、改革派はこの思想を受け入れない。