HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

ボンヘッファーの『交わりの生活』を読んで


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牧師養成学校で将来牧師となろうとする神学生たちに、交わりの重要性、必要性を実践を通して教えながら書き上げた本である。当時のドイツのクリスチャンの霊性は形式に留まる人が多く、神学者たちは神学という学問を追求することに労力を費やしていた。また、ベルリン大学自由主義神学大本営でもあり、ドイツのキリスト教会には生き生きとした活気がなかった時代であった。

 ボンヘッファーは交わりを通して、クリスチャン霊性を育ち、学問だけではなく、肉と血のある、いのちが通る交わりが欠かせないことを主張し、実践した。本人も学問だけではなく、神の御言葉への率直な態度と従順な姿が特徴となる。キリストの受肉という神学は彼がヒトラー暗殺に加わった大きな原因でもあり、「みことばに生きる」ことを常に追求してきた結果でもある。

 

本からのピックアップ:(60年代に翻訳されたものか、読みにくい日本語訳になっている)

我々が今日もなお、キリスト者の兄弟の交わりの中で、生きることが許されているのは恵みであり、恵みのほかに何でもない。

 

交わりの生活は特別なものとして、キリストの生活の「ユリとバラ」(ルター)と認めるようになった。

 

キリスト教の交わりはイエス・キリストを媒介として、イエス・キリストにある交わりである。

 

自然人的な隣人愛は自分のために他者を愛する。霊的な愛はキリストのために他者を愛する。自然的な愛は欲望から生じ、共同体への欲望につながる。これが期待できなくなったら、愛は憎しみと軽蔑と中傷とに急変する。

 

霊的な愛は欲望から出さない。その愛は兄弟愛だけでなく、敵にもその愛が及ぶ。その愛はキリストとその御言葉に源をもっている。

 

1人でいることのできないものは、交わりに注意せよ。彼は自分自身に対して、また共同体に対して損傷を与えるだけ。もし、1人でいることを拒むなら、あなたに対するキリストの召しを退けるのである。

 

キリスト者が一人でいるとき、一日に必要とするものが三つある。聖書の黙想、祈り、執り成しの祈り。聖書の黙想は祈りと執り成しの祈りに役立つ。

 

黙想において、根本原則:自分の喜びでなく神を求めることである。そうすれば喜びを受ける。

聖書の黙想、祈り、執り成しの祈り―牧師の職務遂行の全部はそれにかかっている。

 

1人でいる力、交わりの力は、交わりの中で個人個人に語り掛ける御言葉の力だけである。

 

務めについて:

人が集まるところで、批判、衝突が起きる。

兄弟の上で、神の創造の栄光の富を見る。彼の上に創造主を見出すためである。

 

人が他者と交わりの中で負う第一の奉仕:他者の言葉に聞くこと。

人が他人に対してなさらなければならない第二:活発な救援である。ジブのことばかり思う、忙しくするのではなく、神の時を自分より優先すること。

第三:他者の重荷を負うこと。

 

牧会の権威は御言葉の権威に基づく。

 

罪はその人を交わりから遠ざける。人が孤立すればするほど、彼の上に罪の力はますます破壊的になる。そして、また孤立され、絶望てきになる。

 

口に出され、公表された罪は力をすっかり失ってしまう。

告白によって新しいいのちへの突破がある。