HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

試みに気をつけろ(提防试探)

不要轻易去试探人性,人性经不起考验- 简书

 神は人を試みません。サタンは人を試み、その目的は人を神から引き離すためです。ボンヘッファーが書いた牧会に関する人の中で、サタンから受けやすい三つの試みを紹介しています。

一つ目は人が抵抗しにくい試みである。例えば、野心、権力、虚栄心、性欲などがあげられます。これらのものは、人の心を支配しやすく、正しい判断を誤らせます。

 世の権力、虚栄心はサタンがイエス様に、また現在のクリスチャンに対する試みでもあります。人の欲望によって、人は思わず試みられ、支配され、神を愛し、仕える自由が奪われます。

二つ目は、憂いであります。カトリックの神学では、憂いを七つ罪の一つに数えられているそうです。憂いは人と神の間に横たわり、神が見えなくなります。憂いは救いに確信がない問題だけではなく、神の存在さえ疑う罪である。

 もちろん、誰でも憂いがあります。しかし、常に憂いの中で生きるのは、ある意味で罪の故であります。"茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。"(ルカの福音書 8章 14節)思い煩いは信仰の成長を防ぎます。

三つ目は、救いの確信がないことです。この試みはクリスチャンの救いの確信に対して疑わせます。自分が神の怒りに生きているように思わせます。

 救いの確信がなければ、サタンによる嘘に騙されやすくなります。救いの確信は自分の感覚ではなく、確信を得させる真理の御言葉によって得られます。このような確信があるからこそ、信仰は恵みの内で成長し続けることができます。

 

 

  神并不试探人,只有撒旦才试探人。撒旦试探人只有一个目的,就是让人远离神。最近读的潘霍华的一本关于牧养的书里提到,基督徒面对的三种试探需要提防。

一、让我们感觉无法招架的试探。例如,野心、虚荣,以及对权力和性慾的渴望,这些都可以宰制我们,瞬间蒙蔽我们原本可以看清事理的能力。

   作者提出的试探之一,也是撒旦对耶稣和基督徒的试探,就是世界的荣华和权利。随着人的私欲,这些试探无形地进入我们的内心,主宰我们,使我们失去爱神的自由。

二、另一种显明的试探是忧愁。天主教的道德神学将忧愁(acedia)列入「七宗罪」之一,并不是没有道理!一个陷入忧愁的人,会完全被瘫痪。忧愁让人全然活在隔绝裡,使那个人觉得今生乏味与枉然。黑暗横在那人与上帝之间,让他失去上帝。造成忧愁的原因,与其说是对救恩不确定,倒不如说是对「是否有上帝」存疑。

  没有一个不忧愁的。但是常常处在忧愁中是出于罪。不相信有神,或对神的信心不足。

“那落在荆棘里的,就是人听了道,走开以后,被今生的思虑、钱财、宴乐挤住了,便结不出成熟的子粒来。”(‪路加福音8:14 )忧愁阻止我们灵命成长。

三、最后,显明的试探可以动摇救恩的信心。它会摧毁对基督所成就之救恩的信心。这人看自己落在撒但的权势中,无力胜过试探,又觉得自己活在上帝的震怒底下。

  没有得救的确据,就容易被撒旦的谎言欺骗。不靠着感觉,信靠得救确据的真理,要抵挡魔鬼的控告。这样才让我们的灵命不至于停滞不前,而是在恩典中成长。