HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

在疫情中的受难节(感染拡大中に迎える受難日)


  这周五就是受难日。今年与往年不同的是,在全世界疫情的肆虐中迎来耶稣受难日。受难日的中心当然是受苦的耶稣,不过今年透过疫情来思想十字架上的耶稣。

  在这次的疫情中全世界死亡的人数已经是以“万”为单位计算。在这个时候我们不得不再次思考,神为何让这么多的生命逝去?为何不马上制止疫情的蔓延?我们不容易找到答案。但是,我们看到耶稣来到这个充满罪恶的世界生活33年,自己也亲身经历了人的软弱,只是他并没有犯罪。“因我们的大祭司并非不能体恤我们的软弱。他也曾凡事受过试探,与我们一样,只是他没有犯罪。 所以,我们只管坦然无惧地来到施恩的宝座前,为要得怜恤,蒙恩惠,作随时的帮助。”(希伯来书 4:15-16

  主耶稣知道我们的软弱,知道我们的痛苦,不仅能帮助和安慰我们在痛苦中的人,而且为了我们彻底从痛苦中拯救出来,在十字架上完成救恩,让我们不管在任何环境里,都能存着盼望而活。在疫情中,主同情我们,与我们同在,因为我们与基督同死同复活,与基督成为一体。就如耶稣体贴我们一样,我们在疫情中也要体贴和同情遭受苦难的人们。

  现在也是悔改的时候。疫情中有的带着在基督里的盼望离世的,有的则没有在基督里的。不是那些死了的人比我们更有罪,而是让我们还活着的人悔改。如果不悔改我们也像他们一样灭亡。耶稣说:“你们以为这些加利利人比众加利利人更有罪,所以受这害吗? 我告诉你们,不是的!你们若不悔改,都要如此灭亡! 从前西罗亚楼倒塌了,压死十八个人;你们以为那些人比一切住在耶路撒冷的人更有罪吗? 我告诉你们,不是的!你们若不悔改,都要如此灭亡!”(路加福音 13:2-5

  耶稣在十字架上的受死是为了保全我们的生命。唯有在基督里的生命是没人能夺去的,在基督再来的时候,我们就从死里复活,身体得赎。

 

  

 


  
今週金曜日は受難日です。今年は例年と異なるところは、新型コロナウイルスが世界規模の拡大の最中で迎える受難日です。今の世界情勢を通して、イエスキリストの受難を考えたい。

 全世界で、感染で死亡した人数は「万」の単位で計算する規模になっている。これは、ある地域、国の災害ではなく、全世界の人類に脅威となる災害である。この時に、なぜ神はこのことが起きることを許したのか、どうして早く感染を止めないのかなどの質問をしたくなる。その答えは簡単に見つかることは難しいかもしれない。でも、キリストの受難の観点から今の時を理解することを試みたい。

 イエスはこの罪の世界に来られ、33年間完全な人間として生きた。その故、人の罪による弱さと死の虚しさをよく理解されている。イエスは自分も試みを受けたが、罪を犯さなかったと聖書で書かれている。「"私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"」(ヘブル人への手紙 4 1516節)

 主は私たちの弱さと痛みを知っている故に、私たちを助けるだけではなく、十字架の贖いを通して、苦しみと死から完全に救う保証となった。キリストと共に死に、共によみがえられた者として、今の苦しみの中でもともにいてくださる。キリストが私たちを同情してくださっていると同じように、今苦しんでいる人の気持ちと痛みを共有し、その人たちのために祈り、助けることを心掛ける必要があると思う。

 また、今は悔い改めの時である。ウィルスの感染によってなくなった人は私たちより罪が重いからではない。それは、悔い改めるためである。"エスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」"(ルカの福音書 13 23節)

 キリストの十字架は私たちのいのちが保存されるためである。キリストの中のいのちは誰も奪うことができないし、キリストの再臨のときに体が贖われる。