HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

两种群体(二つのグループ)

两种群体

  最近在阅读一本书的时候,从作者的观点中突然领悟到了一些事情。我们的社会中其实普遍存在着2种群体,这群体不仅存在于民主国家,也存在于专政国家里。

  第一个群体,也是最普遍的群体,就是迎合社会传统和主流思想而活着的人们。不是说传统都是不好的,每个国家和民族都有其很好的文化、思想的传统。但是,人有一种迎合环境的本能,去迎合随着时代的变迁和各个时代所形成的某种价值观。比如,在中国的红色革命时代,提倡“批林批孔”“毛语录”“反资本主义,反知识”等,这些是一种价值观,人生观,人们越迎合这些主流思想时,越觉得这才是自己的幸福,才是实现自己人生意义。但是,中国进入市场经济,人们开始“向钱看”时,“赚钱”成为许多人的人生价值和幸福指标。最近几年,国内提倡“社会主义核心价值”,渐渐成为中国人的新的价值观。从政府控制的媒体战略,把这种思想渐渐地植入到中国人的思想里,认为越是活出国家提倡的“核心价值”才是幸福的保障。

  这种迎合时代主流的价值观在各个国家都存在。日本则是集体主义国家,集体的利益是个人生存和工作的目的。

  另外一种群体是不拘于传统道德标准下生活的,强调个人主义的一群人。在近代社会中形成的“波西米亚主义”(有意无意地,在生活上和艺术里脱离世俗常规),对传统不抱持幻想的人的自由奔放的一种生活方式。这些人看似很有个性,甚至表现出反社会,反传统,有时还很放纵。

  可以说,世界主要由这两种群体组成。这两种价值观不是神的心意,也不是圣经所教导的价值观。圣经所教导的价值观是爱神、爱人,为荣耀神而活。我们敬拜的对象和服事的对象永远是神,最爱的对象也是神,不然我们将会失去真的自由去爱人和服事人。基督徒在每个时代,不成为那个时代的反叛者,也不成为那个时代主流思想的奴隶,而永远作主的仆人,为了荣耀祂而活。

 

  


二つのグループ

 最近読んだ本の中で、作者の思想から突然あることを悟ったような気かする。世界は実に二つのグループに分けることができる。この二つのグループはどんな民族、国家に関係なく存在しているように思われる。

 一つのグループは伝統主義、もしくは主流主義に合わせて生きる人々である。伝統が悪いという意味ではない。国々には素晴らしい伝統はたくさんある。しかし、人にはその時代の主流に合わせて生きる本能があり、自分を合わせようとする。いい意味もあれば、ただ「よい人」「まじめな人」に言われるために生きようとする生き方に捉えることもできる。中国では、それぞれの時代で人々はその時代に合わせて生きようとする歴史がある。例えば、文化大革命時代には、資本主義への批判、知識への批判、共産主義イデオロギーへの賛同などが生きる意味であり、自分の幸せにつながると思っていた。時代は変化し、資本主義経済に変わったときに、富への執着が人の生きる意味と自己価値の表現になった。今は、政府が主導する「社会主義核心価値」が主流思想になり、それに合わせる新しい生き方と価値観が生まれつつある。

 このような「合わせる」生き方は日本でもある。集団主義である日本の社会で、個人が生きる、働く意味は集団のためであり、それに合わせようとする生き方が強いられることも珍しくはない。

 もう一つは反伝統主義、個人主義である。近代社会で形成された「ボヘミアニズム」(自由奔放な生活を追求することを指す)を追随する多くの若者がいる。それは芸術、文学、音楽などで表現している。あるときには、堕落した生活を送ることもある。

 世界はこの二つのグループに分けられているのではないかと思う。しかし、これらのグループの価値観は反聖書的であり、神の御心ではない。聖書の価値観は神を愛し、人を愛し、神の栄光のために生きることである。もし、この二つのいずれの価値観に従って生きるならば、本当の意味での自由はない。あるイデオロギーの奴隷になるか、あるいは自己中心的な個人主義に陥ってしまうか。どんな時代でも、聖書的な価値観に基づくこそ、本当に自由な人であり、神を愛し、人を愛する人生を全うすることができる。