HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

「放蕩」する神 ~キリスト教信仰の回復を目指して     (ティモシー・ケラー)

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1章

放蕩息子の物語で出てくる「弟」「兄」「お父さん」、それぞれの人物に体表する人がいるという。世の中で弟のタイプの人は自由奔放な人、兄タイプの人はパリサイ人的な「まじめ」な人である。

この物語の中で、イエスは兄の道徳倫理的な生活を非難している。弟の罪は明らかであるが、兄は自分が正しいと思っているところをイエスは非難している。イエスに近づいた人は不道徳な人が多かった。取税人、遊女、傷だらけの人たちであった。このような人たちは恵みを必要としていた。

 著者は、「教会になぜ人が近づけないのか」という質問を投げる。それは、教会で「兄」のように「正しい」人、「宗教者」が多いから。自分は欠点のないよい宗教者であり、きよい人だと飾りをする人たちが群がっているからだと主張する。

 

2章

第一幕と第二幕に分けて展開している。

第一幕は弟が持っているすべてを費やして、悔い改め、父のところに戻る決意をする。意外なことは、父が意外な態度で弟を迎え入れる。父なる神の豊かな憐れみと恵みを表している。

第二幕は兄の方。弟が戻ってきて、父が盛大に彼のために宴会を用意するのをみて怒る。父に侮辱とも捉えられる言葉さえいう。自分が当たり前の待遇を受けていないことに、弟より愛されていないことに不満をぶつける。自分が弟より、愛される、よい待遇を受けるのは、当たり前のことだと思っているから。

 イエスは、収税人など罪人が自分が正しいと思っているパリサイ人たちより先に天国に入ると言われる。神の恵みを無視する人は天国に入れないのである。

 

3章

兄は社会的道徳観を持った人の代表ともいえる。パリサイ人が当時律法を忠実に行っていた人で、信じるより、熱心に行うことを選んだ。これが当時のパラダイム(認識の仕方)である。

世界では数えきれないほどのパラダイムが存在していると。その時代のパラダイムである社会的なルールなどを守り、合わせる、優先する生き方が自分の幸福であると認識してしまう問題。

世界は二つのグループが存在しているという。一つは、社会的道徳観に立つ人、もう一つは自分で決めること。この両方とも間違っているという。この両方を代表する人たちは、共にキリストによる救いから遠ざけようとする。

神の恵みを受ける人は、人がそれを必要だと知っている人である。

 

4章

兄タイプの人はいい結果になっていないときに怒る。結果重視、自分で人生をコントロールしようとする。優越感と自己義認、憎悪を正当化する。

兄タイプの人は喜びのない、奴隷のような人であり、ただまじめに生きただけである。恐れを土台にした道徳観は自己中心性を強めるだけである。そして、父の愛に対する確信の無さ、祈りはするが、信仰と喜びと甘さなどはない。困ったときだけ祈る。教会では、兄タイプのクリスチャンが多いのではないか。

 

5章

パリサイ人の問題は具体的な罪ではなく、忌まわしいほどの善行である。

罪とは、自分が自分のために救いを得、支配者となろうとする、神をコントロールしようとする性質である。

本当の兄は、失われた弟を代価を払っても捜し、出かけるべきであった。そういう意味で、本当の兄は、イエスである。主イエスが私たちを捜し戻すために、いのちの代価を払った。

 

6章

人は「ホーム」を慕う。もっと深いところでは、魂にある渇望である。

人はエデンというホームから離れ、弟のように放蕩な人生を生きていた。それが、魂の流浪の始まりである。

人は、イエスを通して父のもとに連れ戻されることができ、ホームに戻ることができる。そのホームは弟のために用意して宴会のように、黙示録で新天地という神のホームがやがて実現する。

 

7章

宴会は味わうことができる。宴会でおいしいものを食べるとおいしさが味わう。救いもただの論理ではなく、味わうことができる。愛は蜜より甘いという救いの体験。

宴会は物質的である。救いはただ魂だけのことではなく、体も含まれる。キリスト教は社会の闇、病気、飢餓などに関心を寄せるべき。

宴会は個人的である。食べる人は、栄誉摂取ができる。人は福音を深く理解するときに、愛と力を得る。福音を深く理解するとき、心の変化が起きる。神の恵みによって、その人が変えられていないときには、まだ福音を理解されていない人である。

宴会は共同体的である。救いは共同体を離れることができない。救われて、共同体である教会から切り離しては成長できない。イエスに似たものになるためには、共同体に深くかかわり、愛と責任ある力強い関係の中でしかイエスの似たものになれない。

「互いに」クリスチャンは職場など、社会で信仰の実践はできる。しかし、それを実践するために成長が必要である。成長は、クリスチャンの共同体で互いに愛し合い、仕え合い、影響し合う中で成長し、自分の生活の中で実践することができる。共同体での訓練と成長なしで、一人で社会で実践しても進歩することは難しい。