HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

クリスチャンと政治(基督徒与政治)

デモ活動 イラスト素材 [ 4844241 ] - フォトライブラリー photolibrary

新型コロナの蔓延のこんにち、世界情勢は絶えず変化している。例えば、アメリカでのデモと暴動、香港の「国家安全法」の可決と市民によるデモなど。感染リスクに加え、これらの地域の人々には不穏な雲がかかっているように見える。

 多くのクリスチャンは信仰と政治は別だと思っている。さらに、ある教会では政治の話は不和をもたらし、分裂を生む種となりかねないとわざと避ける。政治と信仰は実に分かれて話すことではなく、どっちも欠かせない大切なテーマである。

 クリスチャンの信仰の自由は内部的な自由と外部的な自由がある。内部的な自由は信仰者個人の信仰の自由をいい、外部的な自由はある国家の政権の下で、自由に信仰生活を送ることを意味する。歴史からみると、為政者により度々外部的な信仰の自由が制限されたり、剝奪されたりした。例えば、過去の戦争下のドイツと日本の教会は同じ過ちを犯した。国家権力に妥協し、教会としての証を失ったことはもちろん、戦争の罪をも加担した。今の中国政府が信仰の自由への制限と統制もこれと似ている。このような環境の中で、クリスチャンはどう思い、行動すべきだろうか。

 まず、クリスチャンとしての良心を知るべきである。国家は人の生まれつきの人権を侵害してはならない。人は神によって造られ、尊いである。国家が神に変わって、クリスチャンが神の前の自由を奪ってはいけない。

 次に、信仰の自由は国家より先にあり、国家のレベルを遥かに超えた次元にある。神が人を創造したときに、礼拝する本能を与えたので、国家はそれを制限したり、どんな宗教を信じるべきかを指定したりできない。宗教は宗教自身が定義すべきである。

 最後に、クリスチャンの抵抗権。「人に従わず、神に従うべき」という言葉は、使徒たちが当時の権力者に返した言葉である。クリスチャンは修道院の修道士のように自分の信仰生活だけ集中すればいいものではない。外部的な自由が侵害されるときに、如何にそれを監視し、守るために抵抗すべきか知らなければならない。歴史の教訓からわかるように、外部的な信仰の自由を軽んじた結果は自分の内面的な信仰の自由さえも剝奪されてしまう。国家の政権は膨張し続けることが特徴であるゆえに、クリスチャンは政治に関心を持ち、国民としての権利を行使し、信仰の自由だけではなく、信仰告白に生きる民とならなければならない。

 

 

新冠病毒流行之时,世界政局也不断变化。美国的示威和暴乱,香港的《国安法》所带来的港民的示威等等,在疫情的不安中,给这些地区的人们罩上一层不祥的乌云。

对很多基督徒来讲,很少把信仰和政治牵涉在一起。而且,不少教会故意回避政治话题,因为担心引起纷争和分裂。政治与信仰其实并不是矛盾的主题,而是息息相关的。可以说二者缺一不可。

基督徒的信仰自由可分为内在的信仰自由和外在的信仰自由。内在的信仰自由是内心里自由地敬拜神。外在的信仰自由是指在一个国家政权中自由地敬拜神。在历史中,往往外在的信仰自由被国家压制或被取缔。比如,二战时期的德国和日本的教会就妥协于国家政权的施压,与国家共犯了战争罪,而且失去了一代的见证。目前在中国,国家对信仰的严格管制也属于外在信仰自由被限制。对这种环境基督徒如何理解并行动?

首先,要明白基督徒的良心。国家不能限制和侵害人权。因为,人是上帝造的,是尊贵的,国家的权柄不能大过上帝而限制基督徒在神面前的自由。这是基督徒最基本的良心的依据。

其次,信仰早于国家,也超越国家的范畴。故此,国家政权没有资格来限制宗教信仰自由,也没有权柄决定相信什么宗教。什么是宗教,要由宗教本身来决定。

最后,基督徒的抗命权。“顺从神,不顺从人是应当的”这句话是使徒们对当时阻拦福音工作的当权者的回应。基督徒不应该像修道院的修道士一样只专注自己跟神的关系而已,应当关心自己的外在信仰自由的权利。国家的政权有不断膨胀的特征,最终会介入人们的内心世界。基督徒应当为保住信仰自由而不断地祷告,积极发出声音,有必要时行使“抗命权”来守住从神而来的自由。