HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

もう一度主日メッセージを聞く(重复听主日证道信息)

Why Your Sermon Needs More Tension—Especially in the Intro - LogosTalk

クリスチャンの中では、ある錯覚がある。それは、聖書をたくさん知れば、霊的な人となると。霊的のいのちはその人が知っている聖書知識と必ずしも比例するわけではない。これは、みことばの力がないということではない。知識は人が学べば習得できるが、霊性はそうではない。むしろ、霊性はみて学ぶことである。なぜなら、霊性は具体的な生き方であり、真理を生かした生き方だからである。クリスチャンにとっての最大の問題は真理が霊性に変えることができない点である。原因は人にある。自己中心の自我というものが「死なない」限り、その変換は難しい。

 私はクリスチャンがたくさんの説教を聞くことをあまり推薦しない。一つの説教を聞いてよく黙想するほうが複数の説教を聞くよりマシである。「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブの手紙 1:23-25)

 主日メッセージは私が1週間を使って準備する。そのメッセージを一回聞いてすべて理解できるとは言い難い。もし、平日にYouTubeにあるメッセージをもう一度聞くなら、必ず新たな気づきがあると思う。それをもう一度よく黙想するのは、新しいメッセージを聞くよりマシである。牧場の集いでもメッセージを分かち合うが、深く黙想し、自分が御言葉によって変えようとしないなら、新しいメッセージを聞いても恐らく無駄だろう。新鮮な感覚はあるかもしれないが。私たちは聞き上手な人になるだけではなく、実行上手な人となるべきである。

 平日にもう一度主日メッセージを聞くことを勧める。聞いて、新たな気づきを思いめぐらし、自分に適用し、御言葉によって自分の心が説得され、御言葉を生かすようになる。もし、このような訓練ができるなら、みことばを聞いて行うことによって祝福される人となる。

 

在基督徒中有一些错误的认识,就是认为圣经懂得多了就一定属灵。圣经的知识与灵命并不一定成正比。这不是说神的话没能力,而是问题出在人身上。人可以靠着理性习得知识,但是属灵生命则不然。因为,属灵生命是一种具体的生活样式,是真理活出来的结果。基督徒往往在把真理转化成生命的过程中出问题。不仅如此,误以为多听道就能自然而然成为属灵人。阻碍我们生命成长的是我们的自我中心。除去这个顽固的“老我”并非易事。

  我并不鼓励听太多的道,而是好好听一篇道,反复默想。“因为听道而不行道的,就像人对着镜子看自己本来的面目, 看见,走后,随即忘了他的相貌如何。 惟有详细察看那全备、使人自由之律法的,并且时常如此,这人既不是听了就忘,乃是实在行出来,就在他所行的事上必然得福”(雅各书 1:23-25 )。

   主日证道是我用差不多1周的时间预备的,很难在短短的几十分钟内能完全理解和消化。主日敬拜结束后,在下午的牧场中分享的内容一般是自己比较有感触的部分。但分享后如果不去更深入思考,产生不了对生命的多大改变。我建议在周间重播YouTube上的证道视频,必定会给你新的发现和得着。

在网络上确实有很多讲道可供大家听,如果听到的态度不正确,除了有新鲜感以外不会给你带来什么改变。如果周间想听其他讲员的讲道,我建议你选择比较严谨讲解圣经的讲员,听了以后要好好思考、琢磨所听的道,而不能走马观花。我们不能成为一个听道“老手”,而是成为成熟的行道者。

  我鼓励大家在周间重新听主日证道视频,必定会有新的得着。听了以后一定要反复默想,应用于自己的生命景况中,让真理折服你的意志,以至于活出真理。如果有这样的操练,你确实不是听了就忘,而是在所行的事上必然得福。