HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

新型コロナと教会の孤独 (疫情与教会的孤独)

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ネット配信

新型コロナの蔓延により教会の集会形式にも変化を余儀なくされた。我が教会では2月中旬から会堂での礼拝を止め、YouTubelive配信による礼拝に切り替えた。3月から、4月にかけて日本の多くの教会も同じくネット配信に切り替えたと感じている。高齢者の多い教会では、ネット配信さえできず、説教をCDに焼き、家まで届ける牧師もいると聞いた。

多くの教会は突如の礼拝形式の変化に混乱と戸惑いがあると思う。今、特に問題となっているのが、「教会の孤独」である。

まずは牧師の孤独である。礼拝の配信により、牧師は見える会衆に向かってメッセージを語るのではなく、誰もいない会堂でひたすらカメラに向かって語らなければならないのだ。会衆が一人もいなく、淡々とカメラに向けてメッセージをしたことのない人にはその無力さは分からないはずだ。先生たちは、礼拝が終わってからは、ある空虚感に包まれるそうだ。力は出し切ってはあるが、なにもできていないその感覚。

こういうことから、会堂で一同集まってささげる礼拝は、説教者と会衆との相互のコミュニケーションがあり、また聖霊の働きが加わり、恵みの溢れる礼拝となっていく。礼拝はただ説教を聞くだけのことではない。

もう一つの孤独は、信徒である。毎週配信による礼拝を守ることに精一杯である。小さな子供がいる家庭では礼拝さえ集中できない。それに、信徒同士の交わりが断たれてしまったのだ。信徒同士の交わりが断たれたことにより、信仰が停滞もしくは、後退しかねない。また、誘惑に負けやすいのである。信徒同士の交わりにより、信仰者として神についての認識が豊かになり、心が燃え、信仰が強められるのではないだろうか。

感謝することは、我が教会では「家の教会」があり、私は牧場に参加する度、牧員たちのメッセージの分かち合いに励まされている。また、牧員同士の交わりと祈り合いによって、この困難の時期を共に乗り越えていく姿に感動している。家の教会はただの方法論ではなく、主イエスが喜ばれる教会論であることを、この時に改めて思わされているところである。

 

疫情也影响着教会的聚会方式。我们教会从2月中旬开始停止在教堂的敬拜,其他日本的很多教会也陆续在3月或4月份开始停止教堂内敬拜,而改为网络转播。在老龄化的教会连网络转播也很困难,只能把复制的讲道CD或讲稿送到信徒家里。

对于很多教会来说这突如其来的改变,带来不少混乱和危机。主日敬拜转播了一个多月,许多问题就迎面而来。其中最普遍的问题就是“教会的孤独”。

首先是牧师的孤独。牧师在主日敬拜中只对着摄像机镜头讲道。有的牧师分享说,面对空无一人的会堂讲道,比平时感觉更累。这个疲倦可能不是体力上的,而是精神上的。只有经历过无会众讲道的人才能体会那种滋味。因为,讲员根本看不到会中的表情和反应。原来,满有恩典的敬拜并不只是听一篇讲道而已,而是讲员和会众的互动和圣灵的工作中才能实现。

我从教会的好些信徒那里也听到同样的声音。在家里对着镜头敬拜,根本找不着敬拜的感觉。找不到在会堂里会众一起敬拜时的感动、感激。

其次是信徒的孤独。只有主日有敬拜和团契的教会来讲,在疫情期间信徒之间的交通就更少了。基督徒缺少了肢体之间的交通,就很容易灵性停滞或倒退,也很容易受到魔鬼和罪的攻击。在信徒之间的交通中,我们会更认识神,更火热,信心更坚定。

感谢神的是,我们教会因着有家里教会并不孤单。首先,通过参加牧场的聚会,让我可以听到弟兄姊妹们对讲道的分享,每次听到都大受鼓励。通过牧场,成员之间能彼此交通,让我们不至于在信仰上孤立。彼此代祷更是在这疫情期间,得到安慰和力量上不可或缺的。这时候让我更感觉得到家里教会并不是一种方法论,而是主耶稣喜悦的教会论。