HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

牧場は訓練の場(牧场是操练的地方)

 

クリスチャンの霊性は聖書の知識と御言葉への実践を通して現れる。知識だけあり、実践がなかったり、情熱はあるが、知識がなかったりなどは健全な信仰とは言えない。例えば、泳げるためには、理論ばかり学び、水の中に入らなければ、永遠に泳ぐことができない。

 牧場は聞いた、学んだ御言葉を実践する場所である。知識を実践によってこそ霊的ないのちとなる。私がバイブルスタディーに消極的なことは、知識の豊かさが豊かな霊性だと勘違いをしているからだ。受洗して3年ぐらいは霊的な「食欲」はあり、たくさんの聖書勉強を通して、知識と霊的いのちの成長が見える。しかし、3年過ぎてから、知識は絶えずインプットされるが、霊的ないのちの成長は停滞していることがよくある。食事と運動のバランスが崩れると、肥満な体型になってしまう。クリスチャンの霊性も似ているように思える。

 牧場は霊性の訓練の場である。何を訓練するかというと、人を愛することを訓練する。神を愛すると言うのは容易いかもしれながい、人を愛することは簡単なことではない。人を愛することによって、神への愛が全うされる。聖書では人間関係に関する教えがたくさんある。例えば、

(ガラテヤ人への手紙 5章 22〜23節)"しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。"

(ローマ人への手紙 12章 10節;13〜16節)"兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。""聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。"

 これらの聖書箇所はすべて人を愛することに関係している。牧場はこのような御言葉を実践する場であるが、実践は簡単なことではない。人がいるところでは問題と衝突が生じる。その時こそ、問題から逃げるのではなく、真剣に向き合い、人を愛し、赦し、受け入れることにおいて、謙遜に神に頼り、困難を乗り越え、新たに成長した自分が発見できると思う。

 

 

基督徒的美好灵性需要圣经的知识和实践。只有知识没有实践,或者有热心而没有知识都是不完全的。以学游泳为例,只有理论知识的传授,而没有下水的实际操练,游泳永远是个梦想。

牧场是实践听到和学到的圣经知识的地方。知识只有通过实践才能成为生命。我对查经班比较消极的原因是因为知识的灌输给人一种成长的假象,知识的丰富并不表示生命的成熟。刚信主的3年左右,对神的话比较渴慕,有较大的“胃口”,查经班式的学习能看得到在知识与生命的增长。但是过了3年以后,更多看到的是知识的积累而不是生命的成长。就如饮食与运动失去平衡,很容易导致肥胖。吃与运动要结合得好,才能让一个人保持健康的身材。基督徒的灵命亦不如此呢?生命没有操练,只知道“吃”,也会得属灵的“肥胖症”。

牧场是我们灵命操练的地方。那到底操练什么?操练爱人。我们口口声声说爱神,但是如果不在爱人上表现出来,其实我们爱神的心并不完全。圣经中对爱人的教导有很多处。比如,

加拉太书 5:22-23 圣灵所结的果子,就是仁爱、喜乐、和平、忍耐、恩慈、良善、信实、 23 温柔、节制。这样的事没有律法禁止。

罗马书 12:10,13-16 爱弟兄,要彼此亲热;恭敬人,要彼此推让。……13 圣徒缺乏,要帮补;客,要一味地款待。 14 逼迫你们的,要给他们祝福;只要祝福,不可咒诅。 15 与喜乐的人要同乐;与哀哭的人要同哭。 16 要彼此同心;不要志气高大,倒要俯就卑微的人。不要自以为聪明。

这些经文都是有关爱人的道理,要在牧场的实际生活中学习操练。我们都知道实践并不是容易之事,有人群的地方就有异议和冲突。如果在牧场中遇到这类的情况,并不一定是件坏事。只要我们面对这些情况不去逃避,而用正确的态度去面对,在爱人和饶恕人的属灵功课上愿意谦卑地依靠神的大能,就必定能胜过自我,超越自己,看到自己在灵里成长的一面。