HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

『嵐の中の教会―ヒトラーと戦った教会の物語』を読んで

IMG_20200416_214013


第二次世界大戦中のドイツの教会が如何に国家の権力によって、信仰の自由を失いつつあったのかを信徒の証から残された記録。その中で、小さな村リンデンコップの教会の牧師が信徒をリードして国家権力に立ち向かい、抵抗した内容に非常に大きな刺激を受ける。

 

感想:

リンデンコップ村の小さい福音主義教会の信仰の戦いは当時の教会と国家の間の緊張関係を現したのであり、一部の教会指導者と信徒は国家が人の信仰まで支配し、信仰の自由を奪うことに抵抗した。

 国家権力は魔性化することはしばしばあり、教会として、一人のクリスチャンとして、如何に国家権力を常に監視し、信仰の自由を侵害する動きに抵抗権を行使すべきが問われる。日本は痛ましい歴史があり、やがて実現した信仰の自由を強く守るべきである。

C政府による宗教弾圧事件の本質は、戦時中のドイツと日本帝国の政府の思惑と似ている。権力者は常にその権力を伸ばし、人の行動だけではなく、人の内面にまで入り込み、支配しようとする。これが、国家権力の膨張の恐ろしさである。

 国家の上に主がおり、国家の上に神のことばがある。これがクリスチャンが地上で生きる限り、告白し続けなければならないことである。

「神のことばは国家の上にあるのだぞ!」(リンデンコップ村教会の一人の信徒の叫び)

プロテスタントとは、みことばを聴き、みことばに生きること。

 

本の中で特に印象に残ったのを整理してみた。

 

グルントという若い牧師の説教:P46  教会と国家の関係を述べる。教会は主のものであり、国家のものではないこと。

「ドイツ的なキリスト者」について:

今のドイツは国家社会主義になってしまった。国家は教会をこれらと共にさせようとする。今はあらゆるものが愛国的になっていく。

 

ドイツ民族にふさわしいキリスト信仰、ドイツ精神に適応するとはいったいどういことなのか。天において、地においてもあらゆる権力を与えられているキリストがドイツ精神に調和しなければならないとは。P71

 

ドイツ愛国のキリストは我々を肉と血から一つの神を作り上げることになる。

国家社会主義の精神が教会の精神となり、国家社会主義の精神が教会の意志に取って代わるのであった。P75

 

政府は旧約聖書を否定しようとする。それは、ユダヤ人のことを書いてあるから、新約でもユダヤ的な部分を削除すべきだと主張。聖書は新旧両約が神の御言葉であるのに。

政府は教会を統一され、福音を全体的に宣べ伝えることを許さなかった。

 

「告白教会」P93

私たちがキリストのものであり、キリストの恵みによってのみ生きるのであって、国家の恵みによって生きるのではないことを告白する。

福音に生きるか、国家社会主義に屈服するのか、キリストが主なのか、人が主なのかが問われている。

圧制と不正に対して戦う。その武器は御霊の武具に限られていると。福音が唯一の武器。

 

告白教会の総会後の宗教改革記念礼拝で。なぜ宗教改革記念礼拝をするのか?

1.聖書。聖書を奪われたり、敬遠したりしてはならない。

2.信仰によって義と認められることは変わらない。

3.宗教改革は神の言葉の自由をもたらした。神の言葉が国家、ほかの世の力に再び縛られることを許してはならない。

 

その後の聖餐式で:

聖餐式はドイツの国民が一つになるのではない。聖餐式は国民の境を遥かに超える。

 

告白教会に加盟する集会は感動的であった。信徒の告白と署名のとき、ある信徒は署名することを拒んだが、ほとんどの信徒が署名。会堂に残った信徒は信仰のためであり、賛美するが、オルガンの伴奏もないのに、皆が涙くんで賛美する姿。この姿は依然、この教会ではありえなかった。ほとんどの信徒は代々に伝えられた信仰であり、自分たちの信仰のこれほど真剣になったことはなかった。

 

そのとき、学校の宗教教育の時間で、このように教えられたそう。「助け主、救いなる神、キリストはヒトラーを通して、我々の間に力を発揮した」と。

ドイツ的なキリストがあっちこっちある自分たちの教会の祭壇にヒトラーの肖像を掲げた。

 

教会堂占領される日:

ルターの「神はわがやぐら」を賛美。会堂がナチスたちに占領されてからは、山の上の城の跡で、野外礼拝を行った。

 

グルント牧師の言葉:自分がナチスに捉えられることを意識したのか。このように話した「私が考えなければならないのは、私は神に対する責任を果たすことができるかどうかということだけです。これは冒険主義でもなく、神の言葉に基づいてである」

 

牧師がナチスに連行されるとき、ある信徒が叫んだ言葉が得に印象深い。

「神のことばは国家の上にあるのだぞ!」