HUKUROU書斎 Piaoriyongの日常

池袋で牧師をやっています。クリスチャンとして、牧師として日常を綴る

教理史5 キリスト両性一人格論

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司教たちの並ぶコンスタンチヌス大帝を描いたイコン(325年第1ニカイア公会議で)

ニカイア信条にある、キリストは「父なる神の本質から生まれた、真の神からの真の神、生まれたものであり造られたものではなく、父なる神と同一本質(ホモウシオス)」という宣言はアリウス主義や偶像礼拝の危険は避けられるものの、新たにキリストにおける「神性」と「人性」との関係というキリスト論論争を作り出すことになる。

 三位のそれぞれが神である事実をもって、三位一体と呼ぶ。この表現に、イスラム教は攻撃をする。三位がそれぞれ神だとし、多神教だと認識していたためである。

 

初期キリスト論

   「神性」と「人性」との関係をめぐり東方教会の初期キリスト論には二つの傾向が見られた。

一つは、「神が肉体を取った」( ensarkikos ): この傾向はニカイア信条が唱えるキリストの神性は強調しうるものの、人性を軽視して仮現説( docetism )に陥る危険がある。オリゲネスとアリウスに、また後の論争ではアレクサンドリア学派にこの傾向が見られる。

二つ目は、「神が人となった」( enanthropesis ): この傾向は受肉の教理やキリストの人間としての形成を強調しうるものの、神性と人性の区別を正確に付けることに難点があり、後のアンティオケ学派に見られた。

他方、西方教会の初期キリスト論では哲学的思弁であるよりは法概念から本質( substatia )と人格( persona )との区別が導入される。三位一体論は「一つの本質を、三つの人格が」( una substantia, tres personae )、キリスト論は「両本質が一つの人格に」( utraque substantiae in una persona )と説明される。

 西方教会のテルテアヌスの「法概念」では、三位一体は、substautiae(本質) 一つの神に三つの人格をもっていると。 それぞれの本質が一人の人格の中にいる。両者は「混同せず、対立せず」に存在する。

 

アレクサンドリア学派とアンティオケ学派との対立

   ニカイア信条以降のキリスト論論争はこれら二つの学派間で展開されるが、そこには前提的な二つの問いがあった。一つは、神の「不可難性」( apathe )で、神は苦難を受けて可変的であったり、それにより尊厳が損なわれることがないことから、キリストの受難と死によりその神性が損なわれるかを問題とする。もう一つは「属性の交流」( communicatio idiomatum )と呼ばれるもので、神性について言われることはその人性にも当てはまり、その逆も真であるかが問われる。ここから、イエス・キリスト受肉は神の子が生まれたことで、十字架では神が死んだということができ、また、マリアは「テオトコス」(神の母)と呼びうるかが問われる。

 

二性一人格においての異端:

エウテュケス学派: 急進派アポリナリオスのキリスト論(完全な神性、ただし人性を構成する三要素のうち肉体と魂は人間のものであるが、霊は神のロゴス)を受け、さらにキリスト単性論( monophysitism )を創始し、キリストの神性と人性は受肉前では区別されうるが、受肉後は人性の神性への神化により、神性のみを本性( physis )とするとした。

ネストリウス学派: イエス・キリストにおける人間性(成長、自由意志、受難など)を重視するアンティオケ学派の急進派で、神性と人性とを独自の中心点として同時に保たんとして、二人格二性論に陥る危険がある。論争の発端は、マリアは人性の母であっても、神性の母ではないとして「テオトコス」の称号に反対を唱えたことであった。

 

カルケドン正統主義

   カルケドン信条は、キリストは神性においてみ父と同質( homoousios )、人性において我々と同質( homoousios )という表現を用いて完全な神性と人性を説明する。また、四つの否定語のうち最初の二つ(「混同せず」、「変化せず」)はアアレクサンドリア学派を、残りの二つ(「分割されず」、「分離せず」)はアンティオケ学派を牽制して、二性の関係を説明した。しかし、信条は枠付けに過ぎず、教理の最終的な表現とはいえない。そして、キリストを礼拝の対象として、その奥義や神性を強調するアレクサンドリア学派と救い主で模範であるキリストの人間性に注目するアンティオケ学派との対立は、以後の教理史においても繰り返されることになる。