信教の自由と日本の教会(井戸垣 彰著)読書ノート
第一部 信教の自由の尊さ
1章
信教の自由を守ることはキリストの主権性を守ることである。
日本の帝国憲法では、外部の自由を制限することにより、キリスト教を国家のしもべにしようとすることだった。
外的な信仰の自由そのものが神からの賜物である。
信教の自由は神から与えられた精神的な自由権と基本的な人権の故である。
もし、信教の自由が侵されるなら、国家そのものが神によって建てられるべき姿から外れていく。
(自分の意見:神が人を創造し、国家が生まれる。国家は神が創造した人間の基本権利を奪ってはいけないし、国家の奴隷になってはいけない)
信教の自由は信仰と政治の関係が含まれる。
信仰の自由には、個人的な信教の自由と教会の信教の自由と市民的信教の自由がある。
信教の自由の特色:21-24
1.基本的な人権。国ではなく、人間であれば、生まれつきのもの。創造主によって
2.犯すことができない。国の法律により高い次元の法としてあるべき
3.永久の権利である。国民の多数決による変更もできない
政治権力は絶対化する傾向をもっているため、現世的権威を保つことに満足しないで、さらに精神的な権威を保とうとする。権力は被支配者の真の服従を勝ち取るためには、被支配者自身の内的生活にまで食い入り支配する必要があるから。『現代国家における宗教と政治』
国民は信教の自由を守るために、不断の努力と監視が必要である。
2章 教会と国家
国家は神によるもの。その権利も神から与えられたもの。善であるべきだが、絶対者ではない。
帝国の国家観は、国家がすべてである。
国家は、最初に人権があり、その促進と確保のために統治機構が組織される。
政権分離の原則:44-
政教分離の目的:①基本的な人権として、信仰の自由を保障すること。②国家を国家としてあるべき姿であるため宗教から分離しなければ、特定の宗教を利用し、権威を濫用する。③分離しないと宗教側に堕落を招く。宗教が自ら権威によって立つのではなく、世の権威によって立ち、国家機関の一部になってしまう。
政教分離の原則を明確に主張したのは、アメリカのバプテストであった。
何が宗教であるかは、国家が判断するのではない。宗教自体が判断する。特定の教義をもち、信者を教化育成する。
教会が国家に対してすること、しないこと:
前提:①聖書を神の言葉と信じ、福音の信仰の立場に立って議論すべき。②教会と牧師の公的な立場に関わる議論。
信仰の自由の侵犯に対して戦う必要がある。政治運動としてよりも、信仰告白として聖書に基づく動機と方法でなければならない。
3章 国家に従うより、神に従うべき
聖書の基本的な国家観 70
1.国家の上に国家に権威を与えた神の存在。国家を超えた権威、法、価値がある。
2.国家や為政者の権威も無制限ではない。
絶対主義的な国家観:70
国家がすべてであり、聖俗両面の権威と価値の源であり、国家が唯一の法。
「抵抗権」思想に強国な土台を据えたのはキリスト者の国家観である。
キリスト者は国家に盲従することによってではなく、国家に不服従することによって国家に最大の貢献をし、最良の愛国者となりうる。
国家のために戦うことのみが英雄ではなく、国家に対して戦うことのうちに真の英雄が見出されるかもしれない。
抵抗権思想の土台:77
1.国に定めた実定法がすべてではなく、実定法以前の法としての自然法がある。自然法の中心は基本的な人権、人間の尊厳である。
2.国家観。国家は全能ではなく、最終的な価値ではない。
第二部 日本の国、日本の教会
1.日本の本然の姿は国家こそが最終的な権威である。
2.その考え方を生み出した根源として、集団性の問題がある。
3.その集団を売雅歌している原理、すなわち感情と人間関係の問題である
1章 最終的権威の問題
井上哲次郎:日本の本然の姿を一言でいえば「わが国がすべて」である。国家に忠誠を求める。
キリスト教は神がすべてであるから、衝突は避けられない。
国家が宗教をしたにおく政治体制:
1.幕府が慶長6年(1601年)から宗教内容に命令が深く及んだ。
2.国家による宗教組織の支配
3.国家の国民個人個人の宗教心に対する統制。
l 徳川幕府―キリスタン取り締まりのために「寺請制度」を設ける。民衆すべてを寺に登録させ、寺の檀家になる。民衆の宗教は寺に固定され、寺は「寺請証文」を書くか否かによって、民衆の生殺権を握った。仏壇が家に置かれるようになたのは、宗門改めを恐れた民衆が自分の家はキリスタンではないことの証としておくようにしたから。
l 明治4年「大小神社氏子取調規則」を発布。国民一人残らず出たときに、神社に参り、守り札を受ける命令。
l 昭和治安維持法。大正1年に制定。「国体否定」という精神活動を処罰できること。
戦後に治安維持法が廃止になったが、日本政府の自発的発議によるものではなく、民衆の要求によるものでもなく、マッカーサーの指令による。
「我が国にすべて」であり、最終的に権威であり、国民の最終的な忠誠の対象である考えは変わっていない。
キリスト者はキリストの主権性、再臨を信じて生きるとき、わが国の在り方と衝突する。
日本的なキリスト教
内村鑑三の不敬事件。当時の勅語体制とキリスト教は両立できると考えた。
本田庸一、植村正久なぢも両立可能だと思っていた。
良い信徒、よい国民であろうと努力し続けた。
海老名弾正『国民道徳と基督教』。キリスト教は国家主権のもとに一つになることである。キリストの主権性の放棄である。
主権の日本化、すなわちキリストの主権性を放棄して、日本国家の主権の下のみ、服すること。
キリストの主権性を放棄したもう一つの事実は、キリストの再臨信仰を否定である。一般の教会は聖書をもっぱら精神的、霊的に解釈しているから天皇の統治に衝突するところはないという。再臨信仰の否定は将来の望みはない。
ホーリネス教会は地上再臨説を説き、国体に反するとして罪とした。
(如果在中国,坚持基督的主权赫尔王位,却承认共产党,效忠于党和国家的教会,好像可以生存,但其实不是教会。在中难过,真基督徒与教会与国家统治,一定是产生冲突)
第2章 集団性
日本人の集団性は国家が最大の集団。国家の中で職場の集団、血縁集団、同窓会集団など。
日本における集団性は西欧的な「個人主義」と対比しての「集団主義」ではない。日本の集団性は他人と共感できる感情性と自分の所属集団と自己とを同一視し、集団に感情移入を行える傾向が強い。日本人は集団への目標達成を通して、自分の成就要求を満足させうるのである。
個人はこの集団の一員であり、集団に包み込まれていてこそ、個人であり、安心感ある。
このような集団性の中で、国家の中にあってこそ、宗教も宗教出あり得るとする考え方は不思議ではない。
日本集団性のもう一つの特徴は、無限抱擁性にある。
日本の集団性は契約信条によって渇仰しているのではなく、心情的、血縁的絆で結ばれている。
3章 感情、人間関係の問題
日本の「国体」「国民精神」とは感情を内容とする。血のつながりからくる一体感情。国民感情が変わらない限り、制度が変わっても「国体」は変わらない。
日本は法治国家であるが、実際に政治を動かしているのは、人間感情であり、感情が決定し、選択する。
真理門だをすぐに、感情問題に転化しやすい。感情こそ、日本人の言動を支配している力である。
日本人の集団性を強固にしているのは、血のつながりによる感情的一体感。感情の問題は人間関係の問題である。
教会における法の重要性:
教会における 「法」の重要さは、どんなに強調しても強調しすぎるとはないと思う。それは教会が世の流れや個人的性格や力関係によって動かされることから守り、教会の行動に一致性与え、客観的価値の実現へと向かわせる。法制定権の自由は、国家権力による教会行政への介入を排除する。また、公開された法は公開された教会行政を生み、多くの意見や違った角度からの見方が教会行政に反映されることを可能にする。
教会が信仰告白ではなく、感情や人間関係によって行動しているとき、不安定が伴う。国民的感情の波が押し寄せてくるとき、また同じ過ちを犯してしまう。